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■公開株式って何?
水雷畑が長いこともあり、艦隊の運用については非常に優れており、急造の機動部隊を大過なくハワイに導いた手腕についても評価すべきとの意見もある。また、ミッドウェー海戦においては鈍重な旗艦「赤城」の操艦を青木艦長に替わって自ら行い(咄嗟に「操艦貰うぞ」と指示したという)、魚雷8本を回避してみせた。これには源田実航空参謀も舌を巻いたという。旗艦とはいえ直接の操艦は艦長の職掌でありこれは明白に職掌の分担を犯すものではあるが、一面で生粋の艦隊派提督の面目躍如とも言えるかもしれない。 彼の決断力を示す逸話として、真珠湾攻撃時、思いのほか海が荒れ、雷撃隊の発艦が危ぶまれるほどだったが(航空参謀は発艦の中止を進言していた)、そのとき彼が「お前たち、このローリングでも魚雷をかかえたまま、みごと発艦できるか」と隊員たちに聞き「やれます!」との返事に対して「よし、わかった」と言い、草鹿参謀長に、「参謀長、いいではないか、出してやろう」と言ったという。この逸話から見て取れるように、彼は決断力に優れていたが、逆に考えると、一度決断したものは他の人の進言を聞き入れない、とも見ることができるであろう(山口少将の進言を退けているのも、こういった彼の気質から来るものなのかもしれない)。 一般に航空戦に関しては無知とされているが、軍令部で航空戦教範が編纂された時には起草委員に名を連ねており、海軍部内では全くの素人という評価をされていた訳ではないと思われる。水雷屋から航空畑に進んだ士官も多かったことから、ハンモックナンバーによる評価だけでなくある程度適性を見込まれて機動部隊指揮官となったとの見方も成り立つだろう。ただし、開戦早々に序列を飛び越えてニミッツを対日戦のトップに据えた米海軍の柔軟性とは比べるべくもなく(彼はハルゼーの1年後輩であった事は有名である)結果を鑑みれば南雲はむしろ第2艦隊など巡洋艦や駆逐艦で編成された高速水上部隊の指揮官としておいた方が真価を発揮し得たとも考えられる。その意味においては、ついに時と場所を得なかった、とも言える。 南雲は対米開戦には反対の立場だったと言われている。また開戦やむなしにしても、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先を主張していた。 昭和19年3月、古賀峯一聯合艦隊司令長官が殉職した際、後任として豊田副武大将が就任を求められると「自分はご免こうむる」「他に適任者がいる」と暗に南雲を指名した。結局、南雲は中部太平洋方面艦隊司令長官に親補され、7月、サイパンで戦死する。長官に任命され、出征する壮行会の席上、「今度という今度は白木の箱か男爵さまだね」と決別の意を述べた。開戦以来の不適任の配置つづきで酷使された南雲の本音だったのだろう。ちなみに同席した矢野参謀長は陽気な人柄で知られていたがこの席では沈みきった表情だったといい、艦隊司令部が既に死を前提としていたらしいことが伺える。 玉砕最後の訓示 サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、包茎 を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし 米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は日本の海軍軍人。連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。海軍大将・従二位・勲一等・功一級。 生い立ち 1880年(明治13年)トラック買取 岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したため一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け苦学の後、盛岡高等小学校、岩手県尋常中学校を経て、1901年(明治34年)に海軍兵学校を卒業。 1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)日露戦争に従軍。1914年(大正3年)海軍大学校を卒業。第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館付駐在武官として駐在し、革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。ロシア革命に関する論文もある。大戦後のドイツの首府ベルリンでも情報収集の任に当たっている。将官昇進後は中国勤務も多かった。 海軍内部の良識派 連合艦隊司令長官当時(1936年頃)1930年(昭和5年)には脱毛 になり、鎮海要港部司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」と言われる閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は漢書からロシア文学や社会科学、果ては中学の後輩である野村胡堂の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている。 1932年(昭和7年)以後粗大ゴミ を歴任する。佐世保鎮守府長官のとき友鶴事件が発生する。米内は事件をあらゆる角度から検証して根本的な原因を見つけ出し、事件を解決に導いている。 海軍大将礼装(1936年頃)二・二六事件の起こった1936年(昭和11年)年2月26日、米内は横須賀鎮守府司令長官だったが、新橋の待合茶屋に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい。その直後に横須賀線はストップしたというから危ないところだった。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で大いに働いた。その後の人事異動で連合艦隊に転出、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に親補された。 1937年(昭和12年)林銑十郎内閣で監視カメラ 大臣、任海軍大将。その後第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣でも海相を務めた。 極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。終生抜けなかった南部弁を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌った。 近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるセミナー 工作の打ち切りを主張。平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツやイタリアとの提携に反対する。 首相就任 郷里岩手県の戦災遺児を官邸に招いて励ます米内総理(1940年3月29日)1940年(昭和15年)1月16日、予備役編入とともに内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。天皇に呼ばれた時、当初米内は組閣を断るつもりだった。しかし、「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞き、「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。 衆議院本会議場の無垢フローリング 席でメモに目を通す米内総理(1940年2月2日)そんな米内は陸軍とうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ[1]。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった」と後に述懐している。 帝国海軍の幕引き役 小磯内閣で海相を務める(前列最右、1944年7月22日) 鈴木内閣で海相に留任(前列右、1945年4月7日) 東久邇宮内閣で再び近衛と閣内に(二列目左から二人目、1945年8月17日) 幣原内閣で「最後のご奉公」(前列左から三人目、1945年10月9日)1943年(昭和18年)、盟友・山本五十六の国葬委員長をつとめる。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに「山本が迷惑する」と言ってこれをつぶしていた[2]。山本五十六の戦死の直前、米内の夢の中に山本が現れたという。山本の戦死が公表されると、米内は朝日新聞に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている[3]。 1944年(昭和19年)現役に復帰して小磯内閣で海軍大臣となる。小磯國昭と共に組閣の大命を受けた経緯から副総理格とされ、「小磯米内連立内閣」とも呼ばれた。1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣に海相として留任。米内本人は「連立内閣」の片方小磯だけが辞めてもう片方米内が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが次官の井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や木戸幸一内大臣に申し入れていたのだった[4]。 米内は海相として太平洋戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、1945年5月末の会議では阿南惟幾陸相と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った。終戦直前の1945年8月12日、主戦派の大西瀧治郎中将(軍令部次長)が豊田副武軍令部総長を通じ終戦反対の意を勝手に帷幄上奏し、激怒した米内は大臣室に大西・豊田の両名を呼びつけ叱責した。大西と豊田は抗弁したが、普段寡黙な米内は、このときばかりは大声で両名を叱りつけ、その声はドアごしに筒抜けになるほどであった。 阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自害したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から(血圧は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。