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太平洋戦争初期は、第16軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮。その際、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、わずか9日間で10万のオランダ、イギリス軍を降伏させる。
攻略戦の際オランダ軍によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、敵が破壊した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、略奪等を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。
戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して日経225
となり日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村は要求を拒んだ。これは白木綿を取り上げたら現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという彼らの宗教心まで傷つけると考えたからである。軍部などから批判を浴びたが、その実情を調べに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
しかし大本営にはこのCFD
な方針は睨まれており、1942年3月には今村とは親しい仲である杉山参謀総長が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している[5]。
その後昭和17年11月20日、今村は第8方面軍司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任した[6]のち、山本海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交(所謂トランプ仲間だった)があり、互いに気兼ねもなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる[7]そのため山本が戦死(海軍甲事件)した際には泣いて悲しんだという。今村本人も、FX
に着任後、山本が戦死する直前に、海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、米軍戦闘機に襲撃されそうになったが、危うく難を逃れたと言われている。
その当時太平洋の島々はほとんど米軍の手にあり、補給が長く続かないことが懸念された。そのため今村はガダルカナル島の悲劇を繰り返すまいと、島内に大量の田畑を作る様に全軍に指導し自らの手で耕し、自給自足を可能とした。また米軍の空襲、上陸に備えるため強固なる地下要塞を建設した。そのあまりの堅固さにマッカーサー以下米軍司令部も攻略を諦め、迂回進撃し補給路を断ったのち、日本軍を餓死させる作戦を採用した(飛び石作戦)。だが前述のとおりラバウルは本土からの補給無しでも十分生存、戦闘も可能な食料を備蓄していたので、終戦まで日本軍が保持していた。
戦後
1945年8月15日、外国為替
が降伏し、太平洋戦争は終結。今村は戦争指導者として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁固10年で判決が確定した。[8]その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後、今村はオーストラリア軍の禁固10年の判決により、1949年に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない、として1950年には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。妻を通してマッカーサーに直訴したといわれている。
その態度にGHQ司令官のマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた。」と言ったという。
その後刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた小屋(謹慎室)に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、回想録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に使ったという。
また援助を求めてきた元部下に対して今村は出来る限りの援助をしたという。それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。その行動につけこんで元部下を騙って無心をする人間もいたが、それに対しても今村は騙されているとわかっていても敢えて拒否はしなかったという。
国立国会図書館憲政資料室に、彼の肉声を伝える政治談話録音が残されている。
1968年10月4日死去。享年82。
評価
彼の将軍としての評価は特に軍政面で非常に高いことで後世のくりっく365
はほぼ一致している。
特に彼が戦後とった行動はよく現代社会における有事の上司の行動と比較され、「素晴らしい上司とは、かくあるべき」とされることが多い。これと比較して今村将軍の評価の際は同じ日本陸軍の牟田口廉也中将が引き合いに出されることが往々にしてある。
戦略面では、ラバウルでの持久戦が示すとおりに先を読んで準備をするという能力に優れていた人物であったことは確かでそれを成し遂げたという面においては評価されている。
戦術面では、実戦を指揮したのが対中国戦、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、後はラバウルでほぼ戦闘もなく終戦を迎えたこともあり凡将か名将かで評価は分かれる。米軍相手の戦闘を殆どしていないことで他の将軍達と比較しにくいという所が実情のようである。
また、部下に非常に慕われる人柄であった為、統率に関してはしっかり取れていたようである。彼は部下を愛し、住民を愛したと言われそれに対して部下、住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる。[9]
エピソード
漫画家の水木しげるは、兵役でラバウルにいたときに視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いている。(水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫)
ジャワ島攻略の際、阻止攻撃に来襲した米艦隊と輸送船団の護衛部隊との間でバタビア沖海戦が発生したが友軍の魚雷の誤射により座乗していた輸送船「神州丸」を撃沈されてしまい、真夜中の重油が流れる海を3時間泳ぎ続けて救助されるという災難に遭う。翌日司令部揃って謝罪に来た海軍司令官に対し快く謝罪を受け入れた上、味方の大勝に終わった海戦結果と海軍の名誉に傷を付けぬために同士討ちの事実を隠蔽することを提案したといわれる。
尚、現在でも今村将軍はインドネシアの教科書にも掲載されている。
国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、産経新聞・フジテレビの意向で本拠地を明治神宮野球場に隣接する第2球場に移転しようとした際、日本学生野球協会が反対の意向を表明、国会でも問題となり、更には右翼団体までもが動くという状況の中、反対派に担ぎ出されたという。(出典:『ヤクルトスワローズ球団史』徳永喜男・元同球団代表)
クリスチャンであり、士官学校時代から聖書を愛読していた。また歎異抄も好み、部下にもしばしば読むことを薦めていたとも言われている。((歴史街道、2000年9月増刊号より)
牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、陸軍軍人。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。最終階級は中将。
木村兵太郎や富永恭次と同じく東條英機に重用され、いわゆる「三奸四愚」と並んで東條の腹心の部下の一人であった。インパール作戦においては様々な失策を犯したが、一貫して弁解じみた発言や態度に終始した。今日における評価は極めて低く、愚将の典型とされる。
生涯
佐賀県出身、陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。
少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。昭和12年(1937年)7月7日夜半に発生した、盧溝橋事件で、中国側から攻撃を受けた支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊の大隊長だった一木清直は上官である牟田口連隊長に反撃の許可を求め、牟田口は、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として独断で許可し、日中戦争(支那事変)の端緒を作り出した。盧溝橋事件後の会合に負傷していない腕を包帯で吊って出席した、という逸話もある。
1941年の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後のシンガポール攻略戦の指揮を執った。
第15軍司令官に就任し、昭和19年(1944年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2000m級の山岳が連なる地帯で補給を軽視した作戦を立案した。当初、上部軍である南方軍司令官や自軍の参謀、隷下師団は補給が不可能という理由でほぼ全員が反対した。しかし、牟田口は「イギリス軍は弱い、必ず退却する」と強硬に主張、やがて南方軍も大本営も作戦を承認することになった。しかし、危惧通り作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。一介の中将に過ぎない牟田口が本来親補職(天皇より任免される職)である師団長を独断で更迭することは、前代未聞の事態であった。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将はこうした惨状を前に「こんなことで作戦がうまくいくのか?」と疑問を呈したというが、口を差し挟むことは行わなかった(河辺は盧溝橋事件の際も牟田口の上官であった)。またこのとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。なお、補給については牟田口は、牛に荷物を運ばせて食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を実施させたが、もともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなかったため、牛はつぎつぎと放棄され、ジンギスカン作戦は失敗した。