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山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。正三位 勲一等功一級。
経歴
東京市小石川区に旧松江藩士の山口宗義の子として生まれる。開成中学を経て、海軍兵学校に入校、同校40期卒業。海軍大学校卒業。
第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属。水雷、砲術出身の士官であり本来の専門は潜水艦だったという。大戦後戦利艦であるUボート回航要員を経験したこともある。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任したが、その中にあって当時発展過程にあった航空機や空母機動部隊の真価を直ぐさま理解するだけの柔軟性があったという。
海兵同期の大西瀧治郎らの勧めもあり航空関係に転向し、次代の日本海軍を担うエースと目された。大陸に於いて第一連合航空隊司令官として大西の第二連合航空隊との合同作戦(重慶爆撃)に従事した。この際に護衛戦闘機無しで爆撃を強行して大きな被害を出した事があり、またその過酷な訓練で事故が多発したことからパイロットたちから「人殺し多聞丸」との異名を奉られている。しかしその一方で部下との意志の疎通を図るため予定外で陸攻に同乗し飛行食を工面して貰ったり、大西との作戦会議において納得がいくまで双方引かずに議論をやり合ったことなど、この時期に於いても彼の人柄を物語るエピソードが少なからず残されている。
その後、第二航空航空戦隊司令官に就任、機動部隊輪形陣(空母を護衛艦で囲む隊形のこと。逗子 不動産
の場合は戦艦、巡洋戦艦も含めた)等の新機軸を打ち出すなど、航空戦力の充実研究を行った。同職のまま太平洋戦争を迎え、真珠湾攻撃に参加。主力艦に大損害を与えた第一次攻撃に続き、戦果を徹底すべく第二次攻撃を進言するも、艦隊保全がより重要と考えた南雲忠一司令長官に却下された。結果として、海軍工廠および燃料タンク群を無傷のまま残す事となり、アメリカ海軍は旧式の戦艦を失った(しかも大半は引揚・修理されている)のみで真珠湾を根拠地として継続使用し再起する。ただし身近な者や当時の一航艦参謀吉岡忠一等の証言、残された電文の中にそれらしいものが存在しないことから、意見具申は無かったのではないかとする説も近年の研究では有力になってきている。
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でも二航戦司令官として「飛龍」に座乗。空母らしき艦船を含むアメリカ艦隊発見の報告を受け、「直二攻撃隊発進ノ要アリト認ム。」と、ミッドウェー島第二次攻撃用に陸上攻撃用装備させていた部隊をそのままアメリカ空母戦力の無効化のために差し向けるよう進言するも、艦隊に対して陸上装備では攻撃力に欠け戦果を期待できない事を理由に、南雲司令長官に却下された。武装転換に時間を浪費する間にアメリカ急降下爆撃機の奇襲を受け、主力四空母中「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が、艦載機満載かつ爆弾魚雷が散乱する飛行甲板に被弾、戦闘能力喪失という決定的打撃を受けた。戦況認識と意思決定に関するこのエピソードは、山口の航空戦に対する洞察力と適性を示す端的な例として有名だが、この「運命の五分間」説が虚構ではないかという意見も近年有力となっている(澤地久枝『滄海よ眠れ』など)。
三空母被弾後、第八戦隊旗艦「利根」と機動部隊全艦に対し、「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し、指揮継承順上位の第八戦隊司令官・阿部弘毅少将(海兵39期、少将進級は同日)に通信、また「飛龍」艦内には、「津田沼一戸建て
赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と通報、乗艦「飛龍」とともに、全力を挙げアメリカ機動部隊への反撃に移った。二次に亘る航空攻撃の結果、敵主力空母「ヨークタウン」を大破(後、潜水艦により撃沈)させるも、第三次攻撃を前に飛龍も被弾。作戦能力喪失と判断するや速やかに総員退艦を命じ、自らは加来止男艦長と共に艦と運命を供にした。 この際、部下は再三にわたって山口と加来に対して退艦を懇請したが悉く拒否された。また、別な部下が帯同を申し出るとこれも断固として許可しなかった。総員退去の際、退艦する主席参謀伊藤清六中佐が「何かお別れに戴くものはありませんか?」と頼むと黙って自分の被っていた戦闘帽を渡したという。飛龍は総員退去後も暫く浮いていて漂流を続けていたが、総員退去命令が届かなかったり、火災などにより艦内に取り残されていた乗員が相当数おり、この一部が沈没前に最上甲板に脱出に成功した。しかし既に周辺に味方艦はおらず、残されていたカッターを使用して退艦したがこの際傾いた飛龍の艦橋からピストルが落ちてきたという。脱出の際既に艦橋に人影はなかったといい、また艦橋から声がかかることもなかったということから、この時既に二人は自決していたものといわれている。
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角田覚治(兵学校で山口の1期先輩であったが、角田は大佐昇進、少将昇進とも海兵一期後輩の山口より各々1年遅れており指揮継承順位は山口が上である。また当時少将で帝國海軍きっての猛将と謳われた)は、「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに。」とその死を惜しんだという。
彼は山本五十六と同様の経歴(アメリカ駐在武官・大学留学経験や軍縮作業等)を持ち、避戦派とされる山本や井上成美同様彼我の国力差や国民性を熟知しており、初戦で出足を挫き早期講和を意図したとされる山本が提案した真珠湾攻撃の真意を理解した数少ない指導者の一人であった。(但し初戦常勝期に首脳陣以上の拡大策を一案し山本に苦笑されたともいわれている)小沢治三郎らとともに航空戦略戦術の先駆者であり、敗れたとは言えその戦略戦術および戦歴から、戦後連合国側からも最大級の評価を受けた。
一説によると、ニミッツ提督が山本五十六長官機の撃墜の是非を(「ヤマモトを殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」と)情報部のレイトンらに諮った際、山本の後継者として真っ先に名が挙がったのが山口だったと言われる。レイトンは、彼は既に戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他にいない、と返答したという。[要出典]
彼と加来の戦死は、1943年4月24日武蔵野マンション
夜に放送された「提督の最期」と題する番組で公表された。
空母「飛龍」に掲げていた少将旗は生還した第二航空戦隊主席参謀伊藤清六中佐に託され、現在広島県呉市の呉市海事歴史科学館(通称「大和ミュージアム」)に展示されている。 太平洋戦争において戦没した中で惜しまれる提督の一人であり、生き延びて活躍する内容の架空戦記が多数描かれている。
大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、1891年6月2日 - 1945年8月16日)は旧日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。兵庫県氷上郡芦田村(青垣町を経て現在は丹波市)出身。海軍兵学校第40期生。「特攻生みの親」として有名ではあるが、これが事実であるかは議論の余地がある(後述)。
出自
幼い頃より、日露戦争の軍神・広瀬武夫に憧れて海軍を志し、旧制柏原中学校を卒業後、海軍兵学校へ入学した。兵学校卒業後、海軍少尉に任官され、1918年にはイギリスへ留学、帰国後は海軍航空隊の養成に尽力した。
真珠湾攻撃
現在の大西に対する批評では、特攻隊の生みの武蔵野タワーズ
としての名ばかりが有名だが、真珠湾攻撃の作戦計画の原案を作成したのも大西である。連合艦隊司令長官山本五十六に非常に信頼されていた彼は、第十一航空艦隊参謀長であった1941年1月下旬、山本から「ハワイを航空攻撃できないか」という腹案を示され、基本計画の作成を依頼を受けた。
そこで彼は源田実中佐らと協力して真珠湾攻撃計画を作成にかかった。最初の案では真珠湾攻撃の際は湾内の深度が浅すぎて魚雷攻撃が困難なため雷撃を断念し、爆撃のみによる攻撃を行うものであったがこれに対して山本は不満を示したといわれる。そこで、雷撃を併用する案に改めた上で大西は海軍兵学校同期であった軍令部第一部(作戦部)部長福留繁少将にその案を示し、作戦の実行を依頼した。その後、諸問題の解決や軍令部への説得により作戦が実行され、戦史に残る成功を収めたのは周知の事実である。
特攻の発案
太平洋戦争時、中将となっていた湘南 不動産
は、いわゆる神風特攻隊の編成を行なったことにより「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれるが、当初大西は「特攻は統帥の外道である」とし、特攻隊の編成には反対の立場をとっていたとされる。その一方で、1944年6月のマリアナ沖海戦での連合艦隊の一方的敗北以降、日本海軍航空隊が従来の航空攻撃では連合軍艦船に対してほとんど打撃を与えられなくなった状況で、特攻戦法の導入を主唱したのはほかならぬ当時第1航空艦隊司令長官であった大西であった。