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■機関投資家って何?
その上、士官として一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違った所だと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」 海軍次官と終戦工作 米内が現役復帰し小磯国昭内閣の海軍大臣に副総理格として就任、海軍次官に井上を起用する際に、再三の要求にもかかわらず井上は当初固辞していた。しかし、米内の「すでに伊勢神宮に井上が次官になると報告した」「政治の話の時には君は上を向いていろ」という言葉で説得され次官に就任した。当然ながら、次官が政治の話の時に上を向いているわけには行かず、後年この時のことを「貫禄負けでした」と語っている。 次官となった井上は、兵学校長時代には見ることのできなかった投資信託 戦局に関する資料を見て、予想以上に状況が悪化していることを知り、米内の了解を取って高木惣吉少将に終戦工作の研究を始めさせた。 (これを、井上自身『政治はやらなくていい約束の井上の政治活動第一号』と自嘲している) また小磯内閣が総辞職する際には、米内が留任を望んでおらず、小磯と米内がともに大命を受けた内閣成立時の経緯があるにもかかわらず、井上が中心となって部内を米内留任でまとめている。 (これも、『政治はやらなくていい約束の井上の政治活動第二号』と言っている) 昭和20年のはじめ、海軍記者との記者会見の際に新名丈夫が「海軍はこの戦争をどうするつもりですか」と聞いたところ、井上は「和平です」とはっきり答え、記者も井上の気持ちと身の上の安全を考えて一人も記事にしていない。 更に、昭和20年より陸軍から「陸海軍統合」の話が出てきた時も、「本土決戦の片棒を担がせようという陸軍の意思は明白」「陸軍を止めるものは海軍しかない」と、昭和天皇の発言をでっち上げてまで強引に迫ってくる陸軍を追い返している。昭和天皇も、「朕が(陸海軍統合を)望んでいると陸軍は言ってるが、全然そんなことないから」と鈴木貫太郎に述べている。この「先物取引 陸軍による海軍の吸収合併」を食い止めた出来事は井上の隠れた功績である。 終戦間際に行われた、米内海相による大将進級(井上本人は反対の意見書を提出するなど強く辞退していた)については様々な憶測があり、井上があまりに性急に終戦処理を進めようとする結果、周囲と致命的な軋轢を生むことを恐れた米内らによる更迭(次官は大将の任用ポストではないため。しかし大将の次官は過去に沢本頼雄の例があるので問題はなく、次官は井上本人の意思で辞めており米内も慰留はしていない)とも、健康状態が優れなかった米内が次期大臣候補として井上を昇進させ、軍事参議官の閑職に置いておいたともいわれている(過去に米内は海軍次官だった山本五十六の暗殺を恐れ、連合艦隊司令長官として海上に出したことがある)。大将に進級した際は「負ケ戦大将ダケハ矢張リ出来」と皮肉った川柳を詠んでいるが、同じく大将進級の話があった小沢治三郎が結局断り抜いた事に対比し、その真意を疑う意見もある。しかし井上の大将進級については、昭和天皇の裁可があった後に米内より井上に知らされており、次官就任時と同じように、井上が反対できない状態に米内が持ち込んだとも考えられる。 しかし、米内も井上もこれについては何も語らずに亡くなってしまったので、今でも謎のままである。 この件については、『井上成美 反骨の海軍大将』(加野厚志 著)では井上更迭説を取り、『最後の海軍大将・井上成美』(宮野澄 著)や『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著)では井上温存説を取り、『井上成美』(井上成美記念刊行会 編)では両方の説を紹介しながら「米内の真意も、井上の真意も、今となっては知るよしもない」として謎としている。阿川弘之も井上温存説を支持している。高木惣吉や大井篤などはこの井上人事に関して「米内さんの大失策」と批判し、当時海軍大臣秘書官の麻生孝雄は「大将次官で何が悪い。次官まで辞めることはないのではないか」と井上を批判している。ただ、麻生は「『終戦』という見方は一致していた。しかしそのやり方に意見の食い違いがあった可能性はある」としている。事実、「大臣手ぬるい!早く!1日FX 延ばせばまた人が死んでいく」と米内に詰め寄る井上の姿が目撃されている。 ただ確かに忸怩たる思いは抱いていたらしく、高木惣吉が提出した終戦工作報告を「もう僕は責任を取れないから、これは見ないことにしておくよ」と突き返したという。軍事参議官就任後は将官保養所に引っ込んだまま特に何もしておらず、この時点で米内とは訣別したらしい。井上自身も「あれから仲直りはしてませんよ」と語っている。戦後、米内が死去した際は「娘の看病で多忙につき」と葬儀にも参列していない。しかし、「他に世話する人がいないので家で手を合わせてご冥福をお祈りしていました」と親しい人に語り、亡くなる前兵学校の教え子に米内の日経225 墓参代理をお願いしている。また、東久邇宮内閣の時米内続投を推したのは井上である。幣原内閣が成立した時、当時まだあった海軍大臣のポストに米内が自分の後任として推薦したのは、井上ではなく豊田副武であった(GHQから豊田が忌避され米内留任、最後の海軍大臣となる)。 終戦が決まり、米内が軍事参議官を集めて外為 経緯の説明をした席では、悲嘆にくれる同僚をよそに一人すがすがしい表情をしていたという。 戦後の生活 戦後英語塾をしていた頃 井上は海軍兵学校校長時代から英語教育廃止論を退けて英語教育を徹底するなど、教育者としての見識も深かった。 ギターを演奏する井上戦争が終わると、亡き妻のために建てた横須賀市長井の別宅に夫を亡くした娘と孫と一緒に隠棲していたが、隠棲と同時に近所の子供に英語を教えるようになり、井上もそれが楽しみになっていった。自然発生的に出来た「英語塾」は名前もなく、近所の子供たちも「英語に行く」「ミスター井上のとこに行く」と言っていただけだが、井上は彼らのために自作のテキストを作り、元生徒たちも現在でも大切に持っているという。井上に教えられた生徒数は定かではないが、120〜130名ほどだと言われている。 生徒たちの英語教育には、兵学校校長の際に貫いた語学学習法をそのまま取り入れ、授業ではすべて英語で行い、遅刻の言い訳も隣の人に消しゴムを借りるのも英語で言わないといけない厳しいものであったが、「もう2年半くらい子供たちを教えているが、次第に上達してゆくのが楽しみです。(中略)昔から海軍の教育は自由討論に主眼を置き陸軍のように押し付けはしなかった。私は子供の教育にはこれが一番良いと思っています。(中略)それから英語教育には歌を教えるのが一番いい」と東京タイムズの記者に語っている。また、兵学校校長時代の元教官が訪ねてきた時も、「兵学校の校長と言っても、上に海軍大臣がいて色々言ってくることがあったが、ここでは自分が思うとおりの教育をやっているよ」と語っている。 「井上塾」では、英語だけでなく靴の脱ぎ方からテーブルマナー、レディーファーストの精神まで授業のうちに入っており、数学やフランス語、「上手くなればミスター井上のギターが弾ける」と音楽を学んだ人たちもいて、「英語も心も磨いて欲しい」と自分の生徒を託した地元の中学教師も「井上先生の感化で荒んでいた生徒の心が清らかになり、行っている生徒と行ってない生徒の違いが英語だけでなく言葉遣いから礼儀まで、その差がはっきりとわかりました」と述べている。 また、英語は海軍時代にお世話になった横須賀の料亭「小松」の従業員にも週2回出張で教えたが、戦後初めて「小松」を訪ねた際、「申し訳ありません。この度の戦争では大変なご迷惑をおかけし、日本海軍を代表してお詫び申し上げます」と頭を下げた。その後は「小松」の新しい客となったアメリカ軍に対する接客の英語を中心に教え、テキストも自分で作ったガリ版刷りのものであった。謝礼は一切受け取らなかったが、授業の後に出した夕食は喜んで摂ったという。 昭和26年、『東京タイムズ』に『ギターを弾く老提督』という記事が載り、それを見た部下や教え子たちが訪問するようになるが、服は破れた部分を継ぎ足して家には特に何もなく、栄養失調で顔が青黒くなり痩せこけた姿に、これがかつて人並み外れて端正で服装に厳しかった人の姿かと愕然としたと言う。