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■流通市場って何?
横須賀鎮守府参謀長時代のエピソードとしては、横須賀陸海軍の親睦会で憲兵隊長と飲んでいた時、憲兵隊長の「貴公、貴公」と言う傲慢な態度に「少佐が少将に向かって貴公とは無礼な。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん」と席を立ち、別部屋でお茶漬けを食べていたのだが、その憲兵隊長と付き添いの海軍軍人数人がケンカをしている報告を聞き、「憲兵隊長が袋叩きにされています」という事を聞くと、「ほっとけ」と言い、後日憲兵隊長が謝罪に訪れた際、「後で謝るなら最初からするな」と強烈なパンチを食らわせている。 三国同盟に徹底的に反対した通り、ファシズム体制下のドイツやイタリアには厳しい見方をしていた。井上はドイツ、イタリア駐在の経歴を持つが、両国の人間性をあまり信用せず、ヒトラーの著書『我が闘争』についても「日本人を差別している」とし、部下に読むことを禁じている。「でも、そんなこと書いてないぞ。」との声に、井上の副官は「閣下は原書を読んでおられるのだ。お前等が読んでいる和訳本には載っていない。」と答えたという(事実、日本語版からはヒトラーの人種観、特にアジア人に対する蔑視的表現が削除されている。該当項目参照のこと)。 第二次世界大戦が始まってヨーロッパに住んでいた日本人が続々引き返してきた頃、神戸出身の海軍士官が新聞社のインタビューで「ドイツは負けますよ」と発言しそれが記事になった。陸軍がその記事に激怒して海軍省に殴りこみ、その士官も「えらいことになったな。僕が直接説明しよう」と行こうとしたら、「貴様はここで座っていろ。今井上さんが相手してるから」と同僚がウインクをして30分後、陸軍側がトボトボと引き返して行く様子を見て、「ははん、井上さんにめった斬りにされたな」と思わず笑ったという。 戦後は、長井の別荘に隠棲しており、近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたが、特に謝礼を取る訳でもなく、無収入であった為生活は困窮を極めたが、後に兵学校時代の生徒達の尽力により困窮を脱している。 軍人恩給の給付が一時凍結されていた際、井上家の経済的な窮状を察した関係者が旧海軍省次官の経歴で文官恩給の給付を受けられるよう取り計ろうとするのを、「自分は軍人である」と拒否したという。 後年、海上自衛隊の練習艦隊壮行会に嶋田繁太郎(開戦にGOサインを出した東条内閣時の海軍大臣)が出席して挨拶したと聞くと「不見転めが、恥を知れ」と周囲が青ざめるほどに激怒したという。 家庭的には妻にFX 先立たれ娘も病気で失い、困窮により孫を娘婿方の家に養子に出す等、寂しい家庭環境だったという(晩年に再婚している)。 井上と二・二六事件 昭和10年、横須賀鎮守府参謀長に任命される。鎮守府長官は後にコンビを組む米内光政であり、米内・井上ラインはここが始まりである。 しかし、海軍部内でも「なんとなくもたもたしていて、すっきりしない」「相変わらず陰気で、少しも改まってこない」(『思い出の記』)空気で、井上は「五・一五事件で海軍に先にやられた陸軍が暴発する恐れがある」と考え、陸軍の暴走に備えて特別陸戦隊一個大隊を編成、警備艦「那珂」艦長に昼夜風雪の如何に関わらず芝浦に急航できるよう研究すべし、と命令した。井上は新聞記者とも懇意で仲が良く、新聞記者も慕って情報を流したりしていたが、昭和11年2月20日頃に警視庁の前で陸軍将校・常盤稔少尉とその部下たちが夜間演習を行ったとの情報が記者から入り、「そろそろだな」と予測した。そして2月26日の朝6時頃に新聞記者より副官経由で二・二六事件の速報が入る。 「幕僚全員出動!私もすぐ行く」と副官に言ったFX 井上はすぐに鎮守府に急行、かねてより「この時」に対しての準備は出来ていたのですべて手はず通りに行い、混乱はなかった。午前9時頃に長官の米内から「俺もそろそろ行っていいか」という連絡があり、井上は当時を振り返り「大提督らしい態度だった」と述懐しているが、米内は前日には東京の待合にいて事件の事は全く知らず、横須賀線の始発電車で横須賀に帰って来たという説もある。警備艦の派遣は軍令部より待ったがかかり遅れてしまったが、この時に備えて編成されていた特別陸戦隊は26日午後には海軍省に到着、陸軍が決起部隊をどう判断するか煮え切らない態度を取っていた頃、真っ先に反乱軍と規定して米内も井上が作成した訓示に一言の訂正も加えずに許可している。 重慶爆撃 海軍航空隊による重慶爆撃は1939年5月から始まっていたが、翌1940年に行われた、史上初の意図的・組織的かつ長期間継続された戦略爆撃である「百一号作戦」を立案したのが、支那方面艦隊参謀長となった井上成美であった。井上は、百一号作戦が「日露戦争における日本海海戦にも匹敵する」として重慶爆撃を推進した。 海軍兵学校長時代 井上自身は兵学校長の職が気に入っており、このまま予備役に編入されてもよいと考えていたらしい。「校長なら何年でもやっていたい」と周囲に語っている。陸軍士官学校が英語教育を廃止し入試科目からも外すと、海軍兵学校もこれにならうべきだという声が強くなった。「入試科目に英語があると有望な人材を陸軍に取られてしまうのではないか」という意見に対し、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が、事実上の世界語である英語を知らぬで良いということはあり得ない。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍には必要ない」と却下、排斥運動に関しても、「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。海兵校内では先物取引 従来通り外来語の使用も容認している。この様に、英語教育を推進した事に関して、後年井上は、鈴木貫太郎が兵学校を訪れた際に、井上と同様に敗戦を見越した上で、「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、20年後だぞ、井上君」と言われ、敗戦後に生徒が日本の復興に役立つ人材として活躍して欲しい、と思っての事だったと述懐しており、生徒達から相当感謝されている。また、英語教育の具体的な有り方も詳しく述べており、「英語は英語として理解し、無理に和訳させることは良くない」「英語の単語を無理に日本語に置き換えるのは百害あって一利なし」としている。 海兵の講堂には従来、歴代の海軍大将の額を掲げてあったが、井上は「歴代の大将の写真が汚れる」「兵学校の教育は出世主義ではない」と言う名目ですべて降ろさせている。ただ、実際は井上の「大将といっても、一等大将もあれば、三等大将もある。この中には国賊と呼ぶべき者もいる」と言う意向によるものであった。また、教官に実戦での武勇伝を話すことを一切禁止、生徒には陸士生徒との私的交流を禁止した(陸士生徒から不動産 へ相当の働きかけがあったらしい)。 また、兵学校の卒業式は軍楽隊の蛍の光の演奏と共に卒業生、在校生共に「帽振れ」を行うことが定番だったが、それも「『蛍の光』は敵国の曲なので中止してはどうか」という意見が教官や生徒などからあった。しかし、井上は「名曲は名曲である。名曲に敵も味方もあるか」と一蹴している。こうした措置から、「校長は横暴である」と若手士官を中心に批判もあった。しかし、井上はそういう批判や反対意見を排除し、ジェントルマンとしての生徒教育に尽力を尽くし、戦後も当時の生徒や教官が多数訪れ「校長」と最後まで呼ばれていた。また、井上の方策に反抗していた元教官が戦後井上のもとを訪ね、「私がすべて間違っておりました」と謝罪し、井上も「あれは嬉しかった」と述べている。 兵学校の教育について、FX 防衛大学校初代校長槇智雄が訪ねた際にこう語っている。 「私は、『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり、兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみればイギリスのパブリック・スクールやオックスフォード大学、ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人々が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦後に欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える』ということです。ジェントルマンが持っているデューティーとかレスポンシビリティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて重要なのはこれですね。