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林銑十郎内閣で海軍大臣であった際、1938年1月15日の大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉継続を強く主張する多田駿参謀次長に反対して交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、中国における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させたとして批判の対象となることがある。
ただし当時のアメリカのメディアはというと、意外なほど米内に対して親米英派の提督として好意的な好奇心を抱いていた。ニュース雑誌の草分けとして1923年の創刊以来内外のさまざまな出来事を取材してきたタイム誌は、海軍大臣のとき[8]と総理のとき[9]の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱かっている。タイム誌の表紙を日本人が飾ったのは現在に至るまでたったの30回で、そのうち一人で複数回登場しているのは他には昭和天皇の6回と近衛文麿の2回を見るのみとなっており、米内に対する破格の関心が窺える。
米内にはその他にも、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしたこと[10]、戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたことなどに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある。
その一方で、当時の状況下で、他には誰も何もしようとする者がいない中、公人として「アメリカと戦争をしても負ける。海軍は専守防衛の軍隊である」「統制経済のやりすぎは国を滅ぼす」「軍人は政治に深入りするな」と公の場で発言した唯一の人であり、やれるだけの事はやったという見方もある。重臣の一人として、また海軍の大御所として、小磯・鈴木の両内閣では重石のような役割を果たし、落ちるべきものを落ちるべきところへ落とさせたその手腕は並大抵のものではないという意見も根強く、山本五十六と同様、人によって「名将」か「愚将」で評価が二分されている。
米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国の米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。
陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏は俘囚長安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。
三女和子が元竹中工務店会長の竹中錬一に嫁いでいる。
井上 成美(いのうえ しげよし、1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。
略歴
旧制宮城県第二中学校より海軍兵学校第37期入校。入校時成績順位は180名中第8位、卒業時成績順位は179名中第2位。
義兄に陸軍大将阿部信行(後の内閣総理大臣)がいる。
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、軍務局第1課長、横須賀鎮守府参謀長を歴任。そこで横須賀鎮守府司令長官の米内光政を補佐、二・二六事件の際は陸戦隊を海軍省の警備につかせるなどの水際立った対応をとった。
その後、軍務局長として米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官と共に日独伊三国軍事同盟条約締結に反対し、一度は流産させることに成功したが、この頃、海軍関係の新聞記者からは米内・山本・井上ラインのことを「海軍左派3羽烏」と称された。
支那方面艦隊参謀長、航空本部長を経て太平洋戦争開戦時は第4艦隊司令長官。
海軍兵学校校長を経て米内海軍大臣の海軍次官として外為
中央に復帰。海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。敗戦の年5月に大将昇進。次官を退く。塚原二四三とともに大日本帝国海軍最後の海軍大将であった。
敗戦後、横須賀市長井に隠棲し責任を感じるとして公の場には出ず、子供たちに英語を教えたりなどしていた。井上が英語教育をしていた場所は、ソレイユの丘という公園になり、一般に開放されている。
人物像
旧制中学時代の成績表が残っているが、そこには数学と音楽、そして細工(工作)の成績がずば抜けており、意外にも英語は「兵学校三号生徒の時は教官に名指しで英語下手を指摘され」、FX
「おかげで成績は入校時の9番から16番に落ちた」くらいの成績だったようである。英語はその後、クラス一の英語達者な人に英語学習法を聞いて実行したりして逆に得意科目にしている。井上の音楽好きは母親譲りでギターやピアノ、琴が得意だったと言う。戦後に隠遁生活を送った時も、病弱な娘のために介護用ベッドを自分で作り、またパン焼き器やトースターまで自分で作っている。
また兵学校校長時代に独自で編み出した、生徒や教官の数学的思考を養うための「数学パズル」も残っており、海軍次官になった後も暇さえあればそれを楽しんでいた。終戦後に「サン・パズル」という名前でアメリカに販売しようとしたこともある。
数学と語学の教育については自分の経験に基づいた理論を持ち、語学に関しては「語学は若いうちにやる方が有利」「流暢さより正確にものを伝えることに重点を置け。ずっと勉強していればいつか流暢にはなる」「勉強する語学でしゃべる夢を見ればしめたもの」「現地で語学をやるからには会話をマスターすべし。読み書きは日本にいても出来る」「音楽の素養がある人は語学の上達も早い傾向あり」等、海外駐在時代に書いた『駐在任務遂行経過並ニ所感』という提出物にまとめられている。駐在前に駐在経験者の堀悌吉を訪問しているが、「スパイまがいの活動はするな。もっと次元の高いことをやれ。その国の歴史を知り、世情に通じることだ。その国の人々が何をどう考えているか、それを勉強してこい」とアドバイスされ、実際に実行している。
早くから軍政面で頭角を現したが、その一方で実戦では珊瑚海海戦での消極的と外国為替
評価された指揮により、司令長官職を事実上解任されるなど、能力を発揮できなかった。井上本人も「本当にいくさが下手でした」と述懐したことがあった(「いくさが下手でした、といわれています」と語った事もあるといわれている)。ただし井上の「いくさ下手」の評価を決定付けた、前述の珊瑚海海戦での消極的といわれる行動は、原忠一海軍少将が独断で行ったもので、直ちに井上の評価に結びつけるのは間違いであるとの指摘もある。また艦隊勤務がからきし駄目だった訳でもなく、軍務局を離れ練習戦艦比叡の艦長を務めた際は、長く艦隊を離れていたにも関わらず、見事なFX 取引
を見せ周囲を驚かせている。
自ら「ラジカル・リベラル」と称する、剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳(渾名は「三角定規」「剃刀」)が災いし、相手が面目を失うまで手厳しく批判するなど矯激な行動が見られ、部内に敵が多かった。
しかし、人物が冷たいということではなく、艦長不在中に勝手に艦長室のベッドで熟睡してしまった従兵を気遣い自分はベッドの端で就寝し(艦長の井上の方が兵に気を遣って寝ていた)、従兵が気づいて直立不動で謝罪しても(普通は謝罪では済まない)、まあいいから朝の総員起こしまで寝ておけ、と不問に付したり、支那方面艦隊参謀長時代は練習場所に困っていた軍楽隊に練習場所を確保してあげたり、兵学校校長時代には校内の雑用係だった当時15〜6歳の「ボーイ」に、「勉学に励むには一番良い年齢なのに雑用ばかりではもったいない」と希望者のみ無料で基礎的な数学とFX
を隔日2時間ほど教育するよう指導し(講義は予備学生出身の武官教官がボランティアで行っていた)、成績優秀者にはポケットマネーでコンサイスの英英辞典をプレゼントしたりと、「三角定規ではあるものの杓子定規ではない」暖かい面もある。この教育を受けた「ボーイ」の中には、戦後大学に入り大学講師になった者もいるという。また、横山一郎も「井上さんは部下の意見を実によく聞いてくれた。部下の意見を聞かないワンマンとは違う。井上さんのことをとやかく言う人がいるが私は好きだね」と評している。
しかし、『井上成美』を書き実際に会ったことがある阿川弘之は、半藤一利との共著『日本海軍、錨揚ゲ!』の中で、「井上さんと酒は飲みたくない」「同僚・友人としては山本さん(山本五十六)、部下としては米内さん(米内光政)のような上司がいいが、井上さんだったら部下はたまったものじゃない」「(米内や山本と比べて)井上さんは人間として面白味がない」と語っている。しかし、阿川の意図は「人間的にどこかスキがあり、そういうエピソードが豊富な米内や山本と比べて、井上はスキがなく非の打ち所がないところが面白くないということ」ということで、井上の人間性を否定した意味ではない。また、「そのマイナスを重ね合わせたらプラスに転化するのではないかとの思いで『井上成美』を書いた」とも述べている。
軍務局第一課長時代には、軍令部による『軍令部令及び省部互渉規定外為
改正案』に激しく抵抗して名を知られ、一時は遺書を同期に出すほどに覚悟を固めていたらしい。井上は海軍省が持っている権限を軍令部に移すことで、戦争への道が容易になると考え、軍務局長だった寺島健中将と猛烈に反対し続け、寺島が折れた後も、なかなか首を縦に振らなかった。最後は「海軍を辞めます」と言い放ち、家へと引きこもってしまった。なお、当時軍令部の南雲忠一が交渉相手(艦隊派)であり、南雲からは「貴様を殺すのは簡単だ」と半ば脅迫めいたことを言われるが(実際には『殺すぞ』と直接的に脅されたこともあるようだ)、井上はその都度、南雲を言い負かして追い返していた。この『軍令部令及び省部互渉規定改正案』は伏見宮軍令部長(この件に関しては海軍大臣の所掌であり、阿川本には「大角岑生海相」とある)が昭和天皇に裁可を求めた際に、井上と同じ反対理由で、再考するよう一度突き返されており、その事を兵学校同期で当時海軍省副官だった岩村清一が井上に伝えると、鼻で笑ったそうである。
その後一課長を追われ、井上が横須賀鎮守府附として待命予備役編入の辞令を待つ、なかば左遷状態の時に、当時練習戦艦であった比叡艦長の辞令を得ている。井上の職を賭したその態度を、対立していたはずの伏見宮が「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。次は良いポストに就けてやるとよい」と称賛したことによるものであった。この比叡艦長の時に、観測機として配属されていた航空機に着目したことは
、後の「新軍備計画論」の執筆へと繋がる。