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戦後の東京裁判では証人として1946年3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。その上で、満州事変、日中戦争、日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二、板垣征四郎、武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、何故か東條英機の責任については言明する事がなかった[5]。
一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれる事になった畑に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、ウィリアム・ウェブ裁判長から「こんな愚鈍な提督は見たことがない」と罵られても平然としていた。一方で、ジョセフ・キーナン首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。米内は素晴らしい」と敬意を表し、日本を離れる際、自筆の晩餐会招待状を送っている[6]。
1948年(昭和23年)肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の高血圧症に慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた[2]。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたと言える。
米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像[7]が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたという[2]。
人物
海軍兵学校での成績はセミナー
ではなく、卒業時の席次は67番であった。卒業時席次が退役に至るまで出世に影響した日本海軍にあって、この成績で海軍大将まで昇進し、海軍大臣や連合艦隊司令長官に就任したのは極めて異例のことであった。後の研究で、当時の米内のノートを見ると記述の質・量が圧倒的であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決していた。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては異彩を放つ勉強法であり、海軍兵学校の試験の点数が上がらなかったのもそのためであったのだろうと推測される。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の谷口尚真呉鎮守府司令長官から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。
藤田尚徳が海軍次官の時、第三艦隊司令長官に就いていた米内がインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが米内は拒絶した。藤田は高橋三吉軍令部次長と相談し、「データ復旧
の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。米内のを知る2人の同期の計らいで療養生活に入り、早期治療の効果か1ヵ月後には米内は職務に復帰することが出来た。
親睦会で米内(中央)を囲む「一六会」の面々(1940年10月)米内は携帯 アフィリエイト
の軍人としては珍しい国際的視野を持っていた。ロシア語が堪能なことで知られ、大使館付駐在武官としてロシア・ポーランド・ドイツ・中国に赴任した経験があり、将官昇進後は中国勤務も多かった。日本の国力や国際情勢を見極め、英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫いた。
米内が内閣総理大臣をモバイル アフィリエイト
した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。米内内閣が成立した日も総辞職した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ、戦後も長く存続した。戦前の閣僚中、米内は鈴木貫太郎と並び昭和天皇の信任が最も厚かったといわれている。首相退任の際、挨拶の際参内した米内に対して昭和天皇は使用していた硯をその場で直接下賜している。
米内の下で軍務局長・海軍次官を務めた井上成美は戦後、「通販
大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛、加藤友三郎、米内光政の三人だけであったという。井上成美自身は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。
趣味は長唄と日曜大工だった。長唄は遊女の哀れを歌った色っぽいものを好んだ。またロシア文学にも親しみ、プーシキンを愛読した。
坊主頭が当然とされた日本の軍隊で、米内は髪をポマードで整えて七三に分け、若い頃から鼻眼鏡を愛用した。上官から髪を切るよう勧められても「ウフフ」と笑うだけ、切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。
板垣征四郎陸相(中央右)の整体 学校
に参加する米内海相(中央左)。板垣の右には陸軍次官の東條英機も見える。(1938年)
盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相。(1939年6月3日)また長身で日本人離れした風貌でもあったため女性によくもてたようで、特に花柳界では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会って困ったという。
海相時代、華南でハンセン氏病に罹った兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして清水光美人事局長に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。
同じく海相時代、下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は大蔵大臣に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決したのだが、これは米内の人柄によるものであろうと誰もが絶賛した。
米内と板垣は政治的立場も思想も異なったが、同郷出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合った。東京の料亭で開かれた盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集った。
1939年(昭和14年)に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
戦後に昭和天皇も招かれた学士院会員の会食の際、天皇が小泉信三に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文がお目に触れてしまいましたか」と恐縮すると、「米内は懐かしいね。惜しい人であった」と語り、その後は参加者で米内の思い出を語ったと言う。